「残す」のではなく「残る」ストーリー

イースターおめでとうございます!

ライフストーラー企画の山田風音(かずね)です。今朝ヨハネの福音書の復活のエピソードを黙想していて、興味深いことに思い至りました。

弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスはもう一度、その手とわき腹を彼らに示された。(20:19-20)

イエスの体は締め切ってある戸を物ともせず弟子たちに近づくことの出来る体であったにもかかわらず、そこにははっきりと釘の跡、そして槍の跡が残っていたと聖書は言います。しかも、それを「示された」と言います。イエスはあたかもそれらの傷跡を称号として誇るかのようです。

Doubting Thomas by Giovanni Serodine (1594-1630)

コリント前書の15章を開くと、イエスは「眠った者の初穂として死者の中からよみがえ」ったと言われています。そしてそのよみがえりの体は「天上の体」また「御霊の体」と言われています。あるいは「再創造された体」と言うこともできるかもしれません。

イエスの新しい体にはっきりと傷跡が残っていたということが私にはとても意味深いことに思われました。新しい体なら傷のないピカピカの体で良いと思うのですが、イエスの例はそうではなかったというのです。十字架の苦難の跡を恥としてではなく罰としてでもなく、大切なアイデンティティ、勝利の称号として神はイエスの新しい体に残されたのではないかと思います。

もしイエスの復活が私たちの復活を予表するものであるなら、私たちの新しい体にも傷が刻まれているのかもしれません。この世界を生き抜いたその跡が、あちこちに傷として残されているのかもしれません。今をどう生きているかが新しい体にも反映するのだとも言えます。

(もちろんこれらのことは人間には思いの及ばないことであり言葉では表しきれないことであると思いますが。)

イエスの十字架のストーリーが新しい体にも反映してたように、私たちが今ここで紡いでいるそれぞれのライフストーリーも新しい体に残るのではないでしょうか? しかもそれは後悔や恥としてではなく、称号として、また創造主のあがないの業の栄光として刻み込まれるのかもしれません。

そのようなことに思いを巡らせることで、ライフストーリーを紡ぐということの深い意味や意義が聖書を通して示された気がしました。一人一人のストーリーは今の世に「残す」ものではなく、新しい体を与えられるときに「残る」もの…。ライフストーラー企画はいつか終わってなくなるものを扱うのではなく、神の中でずっと残っていくものを取り扱わせていただく仕事なのだ、と思いを新たにしました。これからも畏怖の念を持ちながら、創造主の作品であるお一人お一人のライフストーリーに丁寧に、祈り心を持って近づいていければと思います。

今回も最後まで目を通していただきありがとうございました。この小さな記事が少しでも皆様の祝福となりますように。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。